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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

運に助けられている事に、感謝を忘れてはいけない

 いきなりですが、僕の愛用していた緑のノート・パソコンがこわれました(笑)

 あさって講座で使わなくてはならないのに、起動しなくなってしまって、急遽ヨドバシカメラに行ってきました。
 診断の結果は、どうやらハード・ディスクが壊れてしまっているみたいです。

 修理の見積もり金額を出すにも、1週間ぐらい時間がかかるらしいのですが、「おそらく4万円ぐらいのご予算だとお考えください」 って言われました。

 こんな事なら、ゴールドポイントカードの 「故障紛失盗難全額補償」 に入っておけば良かったです。

 ヨドバシの店員さんから、カードを作る時にかなり進められたのですが、まさか自分がそんな目に遭うなんて思わないから、断ってしまいました。

 後悔先に立たずです…

 まあ、それでも運よく代わりのノートパソコンが調達できたので、講座に関しては、とりあえず何とかなりました。

 僕はいつも要領の悪いやり方をして、自ら墓穴を掘ってしまう事が多いのですが、それでも周りの優しい人達や、天から助けられて、いつもピンチになっても、ギリギリの所で助けられています。

 そういう所の僕の運の特徴は、徳川家康のそれと少しだけ似ています。
 まあ、人間の器としては、月とスッポンほどの違いはありますけど…

 それにしても、こんな風に運に助けられている事に、僕は本当に感謝を忘れてはいけませんね。

 昨日のブログにも書いた 「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」 は、家康にとっては、ただ意地の為の戦さだったのですが、ある意味この戦さは、武田信玄の頭の良さというか、したたかさがにじみ出た戦さでもあります。

 信玄という男は、二万七千の大軍を持ちながらも、決して力まかせには行動をしないんですね。

 武田信玄の軍二万七千が、浜松城の家康を無視して西に向かったという情報を耳にした家康は、武田軍を迎撃しようと、三方ヶ原の大地に、鶴翼(かくよく)の陣を敷いて、待ち構えました。

 この鶴翼の陣というのは、鶴が翼を広げたような構えで、本来は、少勢の相手をそれに倍する兵力で殲滅させるような時の為の陣形です。
 とはいえ、家康の軍は、織田信長の三千の援軍と合わせても、たった一万一千ですから、武田軍の半分にも満たない兵数なのですが…

 これに対して、武田信玄は魚隣(ぎょりん)の陣を敷きました。
 魚鱗の陣というのは、魚のうろこのような二等辺三角形の陣形で、本来は小勢が大軍に囲まれた時に、決死の中央突破をはかる為の陣形です。
 まあ、この場合突破する徳川軍は、武田軍半分にも満たない兵力ですから、突破なんて楽勝です。

 信玄がそのまま突っ込んでいけば、勝負は軽く決するのは目に見えています。

 ところがどういう訳か、信玄も家康も、お互いに三方ヶ原の地でにらみあったまま、全く動こうとしません。
 そのまま2時間が経過しました。

 家康は賭けに出ています。
 ここで信玄が突っ込んできたなら、陣形の乱れに乗じて、一気に本隊をついて信玄の首を狙えるかもしれない…
 まあ、そんな都合よく行く確率なんて、極めて低いですけど…

 でも、織田信長が今川義元の首を取ったあの 「桶狭間(おけはざま)の戦い」 だって、今川軍が二万五千に対して、織田信長の兵はたった三千人です。
 戦さなんて、何が起こるかわかりません。

 ところが家康にとって、相手があまりにも悪すぎました。

 信玄の用心深さは、家康以上です。
 万一の事を考えて、軍勢をビクリとも動かさない(笑)

 まあ、それならそれで、家康にとっても好都合です。
 信玄を足止めできるだけでも、わざわざ出向いた意義は十分にありますから…

 だいたいまともにぶつかりあったら、家康が負ける事は必定ですし、特に今回、家康軍の援軍として加わっている織田軍の三千の兵なんて、最初から戦う気なんてありません。
 「何でこんな戦さに、徳川の為に参加しなきゃいけないんだ」 って文句言いながら、家康に嫌々従っていますし…

 しばらくの間、お互い向き合ったまま全く動かなかった両軍でしたが、ついに信玄の方から動きました。

 といっても、信玄配下の小山田信芳隊の中のしかもほんの一塊の集団だけなのですが…
 いきなりすごい勢いで無言のまま、こちらに接近してきたのです。

 そして、家康の鶴翼の陣の一番右に配置されていた織田軍の前でピタッと止まりました。

 それで何をするかと思いきや、いきなりその辺に落ちている石を拾って、織田軍に投げつけてきたんです。

 織田軍三千は、いきなり石を投げられて、大混乱になりました。
 そして、その混乱に乗じて、小山田隊が織田軍に突っ込んできました。

 これにより、あっけなく織田軍の佐久間信盛と滝川一益の軍は潰走してしまいました。

 さすがの家康も、真っ青になったと思います。
 武田信玄は、最初から、この急ごしらえの家康軍の最大の弱点を見切っているんですね。
 織田軍が、最初からまともに戦う気がない事も知っている…

 これをきっかけにして、この小山田隊の後から、武田軍は次から次へと家康軍に向かって進撃してきます。

 とはいえ、家康の三河武者達は、織田軍とは気合いが違います。
 中でも特に、徳川四天王と呼ばれた、本多忠勝隊と酒井忠次隊は縦横無尽に活躍して、善戦しました。

 信玄配下の猛将・山県昌景でさえも、その勢いにのまれて、その場を退かざるを得ませんでした。

 ところがそれを見ていた武田信玄の息子の武田勝頼隊が、今度はすごい気迫で家康本陣に突っ込んできました。

 それと同時に、いつの間にか背後に回り込んでいた、武田軍の穴山梅雪隊や武田典厩隊の急襲を受けて、これでさすがの家康軍も瓦解して、総崩れです。

 次々と徳川軍の猛者たちの命が散っていきます。
 三河武者は皆、敵に突っ込んでいって壮絶な討ち死にをしました。
 誰一人として、敵に背中を見せて死んだ者はいなかったと言います。

 家康は一旦その場を退いて、新たに兵を集めて陣形を整えてリベンジしようとするのですが、兵が集まる前に武田軍が追撃してきます。

 もう仕方ないので、家康は覚悟を決めて、敵に突っ込んで死ぬ事にしました…

 「おぬしら腰が抜けたか、三河の者ども、わしと一緒に死ねや~」

 悲痛な金切り声を出して、家康が武田軍をめがけて、馬で突っ込んでいこうとした時、浜松城で留守番をしていた忠臣の夏目吉信が、郎党を二十五騎つれて救援に駆けつけてきました。

 「なんとまあ、御大将とは思われぬなされようかな。殿は一騎駆けの武者ではございますまい。殿の代わりはそれがしがうけたまわる」
 と言って、家康の馬首を浜松城の方向へ向けると、部下が槍の柄で、家康の馬の尻を殴りつけて走らせました。

 そのまま、夏目吉信と二十五騎の三河武者は、全員壮絶な討ち死にをしました。

 家康という男は、本当にたくさんの人間から愛された果報者だったと思います。

 命からがら浜松城に逃げ帰ってきた家康が、馬の鞍壺に脱糞していた話は昨日のブログで書いた通りですが、空っぽにした浜松城には、当然兵はほとんど残っていません。

 そこに、武田軍の猛将・山県昌景と馬場信春の軍が迫ってきています。

 家康は城兵に、こう命令を出しました。
 「城門をことごとく開けよ。大かがり火をたけ」

 そう言いおわると、そのまま寝てしまったと言います。

 山県昌景と馬場信春は浜松城にやってきて、息をのまれました。
 城の中は、しんと静まり返っているのに、なぜか門は開いているし、大かがり火がたかれている…

 「うむ、これは何か余程の計略があるかも知れん」
 って顔を見合わせて、引き上げていきました。

 この話は、諸葛孔明が司馬仲達をあざむいた 「空城の計」 の話そっくりで、ちょっと創作ではないかと思われるふしもあるのですが、それでも、家康が周りの人達や、天からの助けを受けて、奇跡的に命を助けられている事だけは事実です。

 まあ、無様な敗戦ですけどね…

 信長は、家康のこの一連の行動を、「浜松の件、無様な ていたらく」 と、はき捨てています。
 合理主義者の信長からしたら、家康のこの決断と行動は、ただの愚かな行為としか思えなかったでしょう。

 しかし、逆に武田信玄は、戦いにおいて、誰一人として、背中を見せて死んだ者がいなかった徳川軍の事を、「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな…」 と評しています。

 この後、武田信玄によってほぼ壊滅的な打撃を受けた徳川家康ですが、信玄の突然の発病と死によって、危機を救われています。
 そして、この後の家康の人生もこんな事が続いて、最終的には江戸幕府二百六十年の礎を築いたのは周知の通りです。

 人生って何があるかわかりませんけど、誰もが知らず知らず、周りの人や天に助けられているものです。

 その事に感謝する事を忘れない限り、きっとその運は、ずっと貴方の事を見守り続けてくれるはずです。


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