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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

下積みがある人はその役目についた時、真価を発揮する

 今日はすごく暑くて、さすがの寒がりな僕も、初めて冷房を入れました。
 それにしても、エアコンという文明の利器はすごいものだと思います。これによって、いつだって快適な暮らしができるのですから…

 さて、あまり脈絡はないのですが、江戸幕府の代々の将軍の話でもしようと思います。
   本当、全く脈絡がなくてすみません…

 かの徳川家康が、江戸の地に幕府をひらいた訳ですが、その江戸時代は260年余りも、家康の子孫によって引き継がれて、命脈を保ってきました。

 2代目の将軍は、家康の三男・徳川秀忠でした。
 家康の長男・信康は、勇猛な武将だったのですが、織田信長の命で自刃させられたので、後継者としては、二男の秀康か、三男の秀忠かと言った所でした。

 秀康は兄に似て勇猛な武将、それに対して、秀忠は温厚で堅物な位に律儀な人でしたが、家康は後継者を弟の秀忠にしました。
 秀忠というと、関ヶ原の戦いで遅参した事がやたら有名になっていますが、あれは秀忠にはほとんど非はなく、やむを得なかったと言えるでしょう。
(2013/4/21ブログ 「暦が刻み続ける悠久の時の中で…」 参照)

 徳川秀忠は、政治力は抜群で、江戸幕府の基礎を固めた功績は、家康よりも秀忠が上かも知れません。

 その後を継いだ三代将軍は、徳川家光
 鎖国が完成したのもこの時代ですが、家光は病弱で顔色が優れない将軍だったようです。

 常に祖父の家康をお手本にしていた人で、いつも 「二世権現(家康の神号 「東照大権現」 の事)・二世将軍」 と書いた紙を入れたお守り袋を持っていました。
 家光は、祖父の家康の事が大好きだったのですね。

 両親(秀忠とお江の方)は自分よりも弟の忠長をずっと可愛がっていたので、それが家光の心に影を落としていました。
 逆に言うと、その時の疎外感が家光の人格形成に役に立ったのかも知れません。
 人間、何が幸いするかわからないものです。

 家康→秀忠→家光という将軍の名前の流れは、大方の人が言えると思います。
 でも、四代将軍になった人の名前がスラッと出てくる人は、中々の歴史通です(笑)

 家光の長男・徳川家綱は、わずか11歳で四代将軍になりました。
 いつも家臣の言った事に 「左様にせい」 と返し続けていたので、「左様せい様」 とあだ名が付けられました。
 どうりで影が薄いはずです(笑)

 家綱には子供がいなかったので、老中の堀田正俊によって、家光の三男で家綱の弟に当たる徳川綱吉が五代将軍になりました。
 家光の次男にあたる綱重は、すでに他界していた為です。

 綱吉と言えば、「生類憐みの法」 を出した 「犬将軍」 として有名です。
 この法律のお陰で、犬を殺せなくなってしまって、野犬が群れをなして横行し、人にかみついたそうです。

 馬鹿な法律を作ったものだと思うのですが、自分の息子が幼くして死んだ時に、住職から変な事を吹き込まれたのが原因ですね。
 綱吉としては、動物愛護精神のつもりだったのでしょうけど…

 その後、綱吉に子供ができなかったので、今度は兄・綱重の子供で、綱吉の甥にあたる徳川家宣が六代将軍になりました。
 この家宣というのは、なかなか学問好きな名君で、利益を求めて近づいてくるような家臣を、徹底して遠ざけました。

 将軍になった時はすでに48歳… これは初代家康に次ぐ、高齢の将軍就任です。
 将軍に就任するやいなや、すぐに 「生類憐みの法」 を廃止しました。

 ちょっと地味ですけど、下積みもそれなりにあった人です。
 まあどちらかというと、この時代の為政者という意味では、参謀役の新井白石の方が有名ですね。

 七代将軍になったのは、家宣の一人息子である、徳川家継です。
 なんとこの人は、4才で将軍になって、8才でお亡くなりになってしまいました。

 江戸時代はエアコンも無かったし、平均寿命も今より運と短かったですから…
 そしてこの時点で、徳川秀忠からの直系の将軍の血筋は、絶えてしまうのです。

 この後の八代将軍を継いだのは、徳川家康の十男・徳川頼宣の子孫で、徳川紀州家の当主である徳川吉宗でした。
 紀州家の当主の時代にも善政をおこなっており、質素・倹約を基調とした改革は、大成功を収めました。 
 地味な人ですけど、江戸幕府の中興の祖で、享保の改革を成しとげた人です。

 紀州から来たので、「南海の暴れん坊」 と呼ばれていました。
 あの松平健さんの主演の 「暴れん坊将軍」 は、ここから取ったのですね。

 さて、吉宗の後の九代将軍を継いだのは、長男の徳川家重です。
 生まれつき言語障害があって、家臣の大岡忠光(大岡忠相の遠戚)しかその言葉を理解できなかったと言います。

 髪はボサボサで髭は伸び放題、酒色にふけり、すぐにトイレに行くので、「小便公方」 とあだ名された愚昧な人、というのが通説です。
 NHKの大河ドラマで、中村梅雀さんがこの役を好演していましたが、まあ、あんな感じだったのでしょうか…

 その後の十代将軍は、家重の長男である徳川家治です。
 実は徳川吉宗は、長男の家重ではなく孫の家治に期待を掛けていたと言われたほどの利発な少年で、吉宗は直々に家治に帝王学を教え込みました。
 武術も堪能で、絵もうまくて、頭脳明晰… 特に将棋なんかはめっぽう強くて、詰将棋の本まで記しているくらいです。

 でも残念ながら、大成しませんでした。
 ずっと江戸城の大奥で軟弱に育てられたのも、その要因かも知れません。

 将軍についた時には、やる気も十分だったのですが、田沼意次の才覚に目をつけ取り立てたまでは良いも、田沼意次をコントロールする事ができず、だんだん政治に嫌気がさして、晩年は政治をほったらかしにして将棋ばっかりに没頭していました。

 家治の子供は、全て早世してしまったので、十一代将軍は、吉宗の三男である宗尹(むねただ)の一橋家の徳川家斉がなりました。
 この家斉の父である一橋治斉という人が、かなりやり手で、家斉のライバルである松平定信を画策して他家に養子にやって、将軍候補から追い落としてしまいました。

 この十一代将軍・徳川家斉は、何一つとして、大した政治的な貢献はしませんでした。
 にもかかわらず、皇室の最高位である太政大臣になっています。
 過去の日本の歴史において、武家で、皇室の最高位である太政大臣になった人はおよそ次の6人です。
 平清盛、足利義満(室町幕府三代将軍)、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠、そしてこの徳川家斉…
 この中でどうみても、徳川家斉だけが俗物です(笑)

 家斉は非常に好色で、側妾(そばめ)は、40人もいて、生まれた子供は男子28人、女子27人…
 すごいです。うらやましい限りです。
 この時代には、家斉の父・治斉に将軍候補から追い落とされた松平定信が老中になって政権を担り、寛政の改革がなされました。

 家斉の後を継いだのは、長男の十二代将軍は徳川家慶です。
 家慶は、水野忠邦を信任して、天保の改革をやらせた人物ですが、家臣の言う事に、いつも 「そうせえ」 ってばっかり言っているので、「そうせえ様」 って呼ばれるようになりました。
 これは、四代将軍の家綱のパターンと同じですね。

 その後、十三代将軍についたのは、家慶の息子の徳川家定
 このあたりの将軍となると、もう末期症状です。
 この人は、「凡庸中でも最も下等」 などと評価されたほどの人物で、30才過ぎても庭のガチョウを追いかけまわしているし、イスに座ってじっとしている事すらできないし、奇声を発して刃先のついた鉄砲を振り回して近習の者を追いかけまわすような、ちょっとヤバい人でした。

 こういう人が将軍についてしまうと、もう幕府も先が短いと言いますか…
 この時代には黒船が来航して、不平等条約が結ばれています。

 家定には子供がいないので、後継者選びが難航しました。そして、紀州家の徳川家茂が、もう一人の将軍候補である一橋慶喜をくだして14代将軍となりました。
 この時、家茂はわずか13歳… この時代は、大老・井伊直弼が台頭していた時代… 安政の大獄の嵐が吹き荒れ、日本中が大混乱をしていた時代でした。
 やがて、井伊直弼が桜田門外の変で急死すると、将軍候補に敗れた一橋慶喜が、将軍後見役となり、だんだん実権を握るようになり、専横していきます。

 家茂はもう将軍職に嫌気がさして、辞任を申し出ましたが、受け入れてもらえませんでした。
 「私は無能なので辞退したい。私と違って慶喜は有能だから、次の将軍は彼がよろしかろう」 って言っても、誰も辞任を受け入れてくれないんです。
 ついに精神的に参ったのか、体を壊して21才の若さで亡くなってしまいました。

 最後の十五代将軍になったのが、この一橋慶喜こと、徳川慶喜です。
 この人は確かに、ここ最近の将軍と違って、聡明な人でした。一橋家に養子に入っていますが、元々は徳川家康の十一男・徳川頼房の水戸家の子孫です。

 この水戸家というのは、徳川御三家でありながら、尊王思想(天皇を尊ぶ考え方)を持っていました。これは黄門様で有名な水戸光圀以来の教えです。
 そして、慶喜も元々水戸家の出身ですから、尊王思想が身についていたのです。

 薩長連合が成立するやいなや、時流の流れを見て慶喜による大政奉還が行われた経緯には、こういった背景もあるでしょう。
 これによって、徳川幕府260年は幕を閉じたのでした。

 鳥羽・伏見の戦いでは、今まで、「例えたった一人になっても、城を枕に討ち死にする」 とか言っておきながら、小姓に化けて大坂城をちゃっかり脱出したのは、かなり格好悪かったですけど、まあ結果的に無血開城につながった訳ですし、多少の功績は認めてあげるべきでしょう。

 こうしてみると、やっぱり何らかの形で下積みがある人は、その役目についた時に強みになるなって気がします。
 そして、下積みがしっかりできていない人は、やっぱり醜態をさらしたり、あげくの果ては無理がたたって体を壊して早世してしまったりしています。

 だから今、下積みの真っ最中だとしても、来たるべき桧舞台に立った時に、それは必ずや報われる事になるはずです。


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