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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

カッコよく恩に応えたい

 今、本当に僕は周りの人に恵まれて、幸せ者だなあと心から感じます。
 たくさんの人の支えられて、今の僕があると思う…

 どんなに感謝しても、足りないですね。
 鑑定や講座でたくさんの縁を頂いたり、大した人間じゃないのに、あり余るくらいに評価して頂いたり、いろいろな恩恵や物を頂いたり…

 頂きっぱなしじゃなくて、その恩を忘れないで大切にしようと思います。

 僕が戦国武将で一番好きな武将は徳川家康なんですが、関ヶ原の合戦でその家康の敵となった石田三成もなにげに好きです。   Nさんも三成ファン…

 まあ、家康自身、三成の事はそんなに嫌いではなかったんじゃないかって気もします。
 晩年家康は、「自分がここまで大きくなれたのは、武田信玄と石田三成のおかげだ」 (どっちも手ごわい敵だったから) って語ってますし…

 石田三成という武将は、多少の功名心はあったかもしれませんが、少なくともお金とか石高とか、豊かな暮らしというものには興味を持たなかった無欲な人です。

 晩年の豊臣秀吉から、同僚の増田長盛とともに、「お前らに百万石やろう」 と言われた時も、それを固辞しました。

 石田三成の話を片っぱしから書き始めたら、また3回連続とかその話題のブログになってしまいますから、やめておきますが、三成は多少 「甘いな」 と思える言動はあっても、優れた武将である事には変わりないです。

 いろいろある中で、僕が石田三成の最も好きな逸話は、三成と心を分かち合った親友である大谷吉継との大坂城での茶会の話です。

 大谷刑部吉継(おおたに ぎょうぶ よしつぐ)という武将は、頭がよく義理堅い名将ですが、らい病(ハンセン病)を患っていたんです。
 顔面が崩れて、いつも白い頭巾で顔を隠していました。

 あの日の茶会の事です。
 茶会というのは、一杯のお茶を全員で回して味わうのですが、大谷吉継がお茶を飲もうとした時、顔の膿がポタリとお茶の中に入ったのです。

 誰もがそのお茶を飲むのをためらって、飲むふりをして次に回していったのですが、石田三成はそれを全て飲み干し、「あまりにも美味しいお茶だったので全部飲んでしまった。もう一杯注いで頂きたい」 と言ったのです。

 これは本当に美しい話だと思います。

 大谷吉継というのは、関ヶ原では西軍につきましたが、元々は親家康派の武将でした。
 元より家康の人望を高く評価していて、親友の三成を何とか家康と仲直りさせようと画策していたくらいです。

 その為の説得をしようと三成の元に出向いた吉継に、三成は挙兵して家康を討つ決意を打ち明けます。

 吉継は、これでもかとばかりに厳しく諫言(かんげん)して、家康と戦っても絶対に勝ち目がない事を三成に諭しましたが、やがて、三成の決意が絶対にひるがえらない事を知ると、三成との友情の為に、家康と袂(たもと)を分かち、あらん限りの智謀を捧げました。

 「おぬしは智には長けているが人望がない。横柄なおぬしが激を飛ばせば、みんな内府(家康)の元に走る。安芸中納言(毛利輝元)か備前宰相(宇喜多秀家)を総大将に立てて、おぬしは陰に徹せよ」

 三成は吉継の言う通りにしました。
 毛利輝元が西軍の総大将になったのは、こういう経緯があります。
 (2012/11/8ブログ 「周りの人に流されない」 参照)
   総大将が宇喜多秀家だったら、勝敗は違っていたかも…

 家康は、自分にすっかり味方してくれると思っていた大谷吉継が西軍についたと聞いて、ひどく狼狽したといいます。

 関ヶ原の合戦において、西軍には裏切りが多数出たのですが、大谷吉継は最後まで三成を裏切る事なく、戦場でその命を散らせました。

 大谷吉継も立派な武将ですが、石田三成もまた立派な武将です。
 
 大坂城の茶会の時、普通は人の病気の膿が入ったお茶なんて飲めません。
 そんなお茶を飲んだら、自分も感染するんじゃないか… とかいろいろと考えるでしょうし…
 でも、三成はそんな事よりも、人と人との関係でもっと大切にしなければいけない何かを取ったんですね。

 僕も、こんな風にカッコよく、周りの人から与えて頂いた恩に応えていきたい… 今そんな風に心から感じています。


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