外では蝉の鳴き声
いいですねえ。一句詠みたくなりました。
うたかたの 世を儚(はかな)んで 蝉しぐれ
駄作ですね…(笑)
セミって、10年ぐらい土の中で、幼虫として生きながらえているんですけど、成虫になってミンミン鳴きはじめてからは、わずか1ヵ月足らずでこの世を去ってしまう…
今、鳴いているセミ達って、10年前くらいからこの世に生を受けていたんですね。
地球の営みってすごいな… とかしみじみ感じたりして…
それにしても最近感じるのは、この世の中で、人が残した言葉というのは絶対に正しいとは限らないという事…
そういう言葉に すがりつこうとすれば、だまされます。
だから、もし信じられるとしたら、唯一、自分の心の奥深い部分にある感覚から来る言葉ぐらいなものです。
誰かの言った言葉もそうですし、本の中の活字でも、ずい分 間違ったものもあります。
小学生の時に呼んだ、豊臣秀吉の伝記に、
「秀吉は将軍になりたくて、室町幕府の将軍だった足利義昭の養子になろうとしたが、断られました」
って書いてあったんです。
それが僕の記憶にあって、つい昨日まで、すっかりそれが史実だと信じていたのですが、どうやら実際にはそうでないらしい…
「タロットカードは、古代エジプトのマギによって作られ、やがて大アルカナが欠落してできた物がトランプ(プレーイング・カード)です」
という根も葉もない事が、まことしやかに長い間信じられてきたのと、まさに同じパターンですね。
(2012/3/10ブログ 「子供の頃の思い出」 参照)
嘘つき、エテイヤ…
やっぱり、ある一つの世界観や歴史認識だけで、何かを決めつけようとするのは、すごく危険だと思いました。
例えば、自分が信じていた人が言った事は、常に正しいって思いたいし、「間違っているかも…」 なんて思うと、心が引き裂かれそうになるから、僕は考えないようにしていたんですけど…
最近になって、それって依存の一種だな… と思うようになりました。
よく、なにかの宗教の教えにハマってしまって、そこから抜け出せなくなってしまう人がいるけど、結局それと同じなんですね。
もちろん、宗教というもの自体が悪い訳じゃなくて、こと信仰という意味で言えば、僕は宗教っていいものだと思うんです。
ただし、「これはこういうものだ…」 って決めつけられた教義に、それを入信している人が何の疑いを持たなくなって、自分で考えるのをやめちゃう事が問題だと思う…
お盆でお墓参りに行くとか、神社に行って参拝するとか、日曜の朝に教会のミサに行くって、それぞれに僕はいい事だと思います。
でも、それはそこの教祖様がいい事だって言っていたからとか、聖書にそう書いてあるから… っていう理由ではあって欲しくないんですね。
僕がそれをいいことなんじゃないか… って思うのは、何となくですが、心が洗い清められるような感覚になるからなんです。
結果的に運気もアップしているし…
自分のその感覚を信じてみる…
絶対なんて何一つなから、誰かの言葉は参考にしても、盲信も依存もしない。
その上で自分で考えて行動した時、いつでも背筋をピンと伸ばしたまま、生きていけるような気がするんです。
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