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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

天から授かった能力

 いよいよ、淮陰侯韓信(わいいんこう かんしん)のお話も、今日が最後です。

 蒯通(かいつう)は何度もしつこく、劉邦から寝返って独立する事を進言しましたが、韓信は話は聞くも、やっぱりそれはしませんでした。
 仕方なく蒯通は、自分の身に危険が及ぶのを怖れ、気がふれたフリをして、韓信の元から去って行きました。

 今や劉邦の漢軍の力は絶大となり、項羽の楚(そ)軍との差は歴然となりました。

 そしてついに、韓信を先鋒とする劉邦の漢軍30万の軍は、垓下(がいか)の戦いで、項羽の楚軍10万と対峙し、最終決着をつける事になります。

 「四面楚歌」 という言葉がありますが、これはこの戦いでの故事が元になった四文字熟語です。
 四方を漢軍に囲まれた項羽は、漢軍の陣から、自分の故郷である楚の国の歌が聞こえてくるのを耳にして、「敵には、なんと楚の人間が多い事か」 と嘆いたという故事から、生まれた言葉です。

 楚王・項羽はここであえなく最期を迎え、劉邦の漢王朝が、中国大陸を統一する事になるのです。

 やがて韓信は、斉(さい)の国を取り上げられ、代わりに項羽の領土だった楚の国を与えられました。

 実は韓信も、項羽と同じ楚の出身者です。
 晴れて、生まれ育った地である楚の王となったんですね。

 韓信は昔、自分に食事を与えてくれた綿打ちのおばさんを召し出し、千金を授けました。
 それから、自分の股をくぐらせた男を召しだして、警視総監に任命しました。
 その時、楚の将軍や大臣たちに、
 「こいつは立派な男だよ。わしに恥をかかせたのだから…」 と言って、紹介したりもしました。

 思えば、これが淮陰侯韓信の絶頂期でした。

 そんなある時、皇帝になった劉邦に、「楚の韓信が謀反を起こしている」 という上書が届いたんですね。

 韓信は よく村を視察する時に、軍を引き連れて隊形を組んで回っていたんです。
 その様子を見た人間から、勘違いされちゃったんですね。

 劉邦はこれは放っておけないと思いました。
 万一、謀反の噂が本当だったら、天下が危ないですから…

 そこで策をめぐらしました。
 「これからわしは旅行に出るから、陳(ちん)に集まれ」
って、韓信を呼びつけたんです。

 韓信は、まさかそんな風に疑われているなんて思っていないから、昔 劉邦の敵だった男の首を手土産に、陳に行きました。

 すると、いきなり縛りあげられて、カセをはめられちゃったんです。

 しばらくして誤解は解けて釈放されたものの、楚王の位は取り上げられてしまいました。
 もちろんそれでも、臣下の身分は保障されはしましたが…

 当然、韓信は面白くありません。
 同じ臣下の周勃(しゅうぼつ)や灌嬰(かんえい)樊噲(はんかい)なんかと、一緒の身分にされたのを不名誉な事だと思っていました。

 韓信が樊噲の家を訪れた時、樊噲は、同じ身分とはいえ、格上の韓信に
 「大王様には、わざわざ私めの家にお出まし下さいまして、大変嬉しく思います」
と、ひざまづいて頭を下げました。

 韓信は、
 「オレも、樊噲ごときと同じ身分になってしまったとはな…」 とボソリ(笑)

 こういう態度は、以前の韓信には考えられない事です。
 王の位を取り上げられた事が、よっぽど悔しかったのでしょうが、この言葉は、韓信の、「自分はすごい人間なんだ」 というおごりの気持ちそのものです。
 こんな態度を取っていれば、当然人望を失い、周りの人は離れていくのも当然でしょう。

 韓信は、いつも恨みをいだくようになりました。
 そんな事なら、あの時、蒯通の悪魔のささやきの通りに劉邦から寝返っておけばよかった… という思いが、何度も頭を駆け巡ったに違いありません。

 気分がふさぐので、病気と偽って、謁見にも行幸にも一切出ませんでした。
 韓信を敬っていた人達の心は、徐々に離れていきます。

 そんな無為な月日が流れ、悲しい事に韓信は、やがて中国三大悪女の一人としても有名な、劉邦の妻・呂后(りょこう)によって、謀反の罪を着せられた上、だまし討ちにされて、首を切られてしまうのです。


 韓信が劉邦から楚王の位を取り上げられて、しばらくした頃のお話です。
 二人は兵の指揮について、語らいあっていました。

 「わしは、どれぐらいの兵を指揮できると思う」
と劉邦が尋ねると、
 「陛下は、せいぜい十万人の指揮がおできになるに過ぎません」
と韓信は答えました。

 「ならば、君はどうだね」
 「私は、多ければ多いほどよろしゅうございます」
と韓信。

 劉邦は笑いだし、
 「それならば、どうしてあの時わしに捕まったのじゃ」
と言いました。

 その時、韓信は次のように答えたと言います。

 「陛下は兵を指揮される能力はおありになりませんが、将軍を指揮されるのがお上手です。これこそ、私が陛下に捕えられた理由です。
 それに陛下の能力は、天から授かった能力であって、人間の能力ではございません」

 韓信はわかっていたのかもしれません。
 人間の能力ではない、天から授かった能力というものを…

 自分で何か事を成しているようで、実はただ、天から力を与えられているに過ぎない、という事なのでしょう。
 おごりが出ると、こんな簡単な事でさえ忘れてしまいますけど…

 「史記」 の作者の司馬遷(しばせん)は、韓信の事をこう評価しています。

 もしも、韓信が道理を学び、謙虚で自分の功績を誇らず、その才能を鼻にかけなかったならば、ほとんど理想的な人となれたであろう。
 漢王室に対する勲功は、周公、召公(しょうこう)、太公など一連の人にも比べられ、後の世までもお祭りのお供え物を受けられたろうに…

 才智にあふれた英雄は、悲劇の最期を迎えましたが、その生き様は二千年以上たった今でも人々に語り継がれ、我々に様々な事を教えてくれます。


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