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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

周りの人に流されない

 すみません… また今日も関ヶ原ネタです。
 歴史に興味がない人もいるし、本当はこの話題は1日で終わらせるつもりだったのですが、書いている内にどんどん文章が長くなってしまって…
 気づいてみたら、今日で3日目です。
    もう今日で終わらせます(笑)

 今回書きたい事を一言でいうと、ある人物の批判なんですね。
 とはいっても400年以上も前の人だから、あくまでも言い伝えられているその人物に対してですが…

 こうやって人の批判したり、悪口を言ったりするのって、気をつけていないとマイナス作用も大きいです。
 よく、「人の悪口を言うと、ストレス発散になっていい」 という人がいますが、それって知らず知らずに自分の運を削ぎ落としています。
 少なくとも相手の悪い部分に自分の心が感応している訳ですから…

 もしも、悪い影響を受けないように人を批判するとしたら、次の2つのやり方があると思います。
 1つは、その相手の欠点も自分の中に存在する事を理解して、自分に言い聞かせるように批判をする事。
 もう1つは、その相手に好意を持った上で、愛嬌でもって悪口を言う事(笑)

 これなら例え人の悪口であっても、容赦のない言い方ではなくて、丸みのある言い方になると思うし、人を批判する事でプラスになる事もあると思います。

 一昨日からの話の続きなんですけど、結局あの関ヶ原の戦いで、西軍敗北の原因を作り出したのは毛利輝元だと思うんですよ。
 毛利輝元という人の失敗のパターンは、なんか僕自身が今までやってきた失敗に似ていて、本当に反省させられるんです。
 他にも、僕やこの毛利輝元と同じ失敗をしている人も多いはずだから、きっと参考になると思います。

 昨日のブログにも書きましたけど、この人性格はいいんです。
 大大名の生まれで、育ちも良いだけあって、あんまりガツガツしていません。

 天下を取った豊臣秀吉が近習のものに、
 「今自分に代わって天下を取れるのは誰だと思う?」
と問うと、必ず徳川家康と前田利家、それにこの毛利輝元の名前があげられました。
 それなりに人望だってあるんです。

 でも、いかんせん統率力がありませんでした。
 今まで毛利家が無事に存続してきたのは、伯父の小早川隆景(毛利元就の三男)が、全部毛利家の政治を牛耳ってきたからです。

 ところが、関ヶ原の戦いの勃発前くらいの時代になると、毛利家には複数のトップがいたんです。
 複数のトップがいる組織って、本当に危ないです。
 小早川隆景の死後、毛利家全員をまとめるだけの器量を持った人がいなかったんですね。
 本当は、その役割を当主の輝元がやらなければいけないのですが…

 この頃の毛利家の中でも、輝元の養子となった毛利秀元、吉川元春(毛利元就の次男)の息子で、家老のポジションの吉川広家、そして古くからの毛利家の外交僧で、豊臣秀吉と毛利家を結びつけた安国寺恵慧の3人は、発言力が拮抗していました。

 徳川家康と石田三成とがそれぞれ台頭し、勢力が完全に二分する中、吉川広家は、「毛利家は実力者である徳川家康側につくべくだ」 と主張しました。

 それに対して、安国寺恵瓊は、「毛利家は石田三成側について、今こそ家康を糾弾すべきだ」 と主張します。

 石田三成からの依頼を受けた安国寺恵瓊は、毛利輝元を西軍の総大将にしようと画策します。
 これには、吉川広家も、輝元の養子の毛利秀元も大反対しました。
 そんなものについたら、徳川家康の怒りを買う事は必定ですから…

 あまり知られていませんが、毛利輝元は徳川家康と義兄弟のちぎりを結んでいるんです。
 敵が多くて実力も未知数な石田三成につくより、徳川家康側についた方が断然有利です。
   輝元と家康の義兄弟の契りは、吉川広家が画策した…

 安国寺恵瓊は、吉川広家に内緒で秘密裏にどんどん話を進め、毛利輝元に西軍の総大将になる事の承諾を迫ります。

 すると事もあろうに、毛利輝元は一切の詮議を行わず、これを二つ返事で快諾してしまったんですね。

 こういう所が、この人の致命的にまずい所です。

 もちろん、自分が毛利家を完全に統率しきっているのなら、こういうのもありかも知れません。
 でも現実はそうではないのだから、少なくとも吉川広家らの反対意見も聞いた上で、詮議の場を作って、改めて西軍の総大将につくという最終決定をすべきだったんですね。

 輝元は、安国寺恵瓊に勧められるままに、西軍の総大将として大坂城に入城します。
 関ヶ原の主戦場へは、自分の代わりの名代として養子の毛利秀元に一万五千の兵を与え、補佐役として吉川広家、それに安国寺恵瓊を行かせました。

 この状態、吉川広家からしてみれば、自分達の知らない所で輝元は安国寺恵瓊にうまうまと乗せられて、勝手に西軍の総大将に担ぎ出されたように見えます。

 吉川広家も大坂城に入って、西軍の総大将の件を撤回させて東軍につかせようとするんですが、もう話がどんどん進んでしまって、どうにもなりません。

 「これは毛利家存続の危機だ…」 という事で、吉川広家は当主の輝元にも内緒にして、知り合いの黒田長政を通じ、
 「毛利輝元の西軍総大将の就任は、本人が知らない所で勝手に行なわれている事であって、戦いでは不戦を貫くので、所領を安堵(あんど)してほしい」
という旨を徳川方に伝えます。

 それで徳川方も、「まあ本人も知らないのに総大将に担ぎ出されたのなら仕方ないか…」 って事で、これを了承しました。

 あの関ヶ原の戦いにおいて、南宮山に陣取る毛利秀元(輝元の名代)が率いる一万五千の軍を初めとして、それに続く長宗我部盛親の軍、安国寺恵瓊の軍、長束正家の軍など合計三万三千近くの大軍が、全く動かなかったんです。

 なぜ動かなかったかといえば、南宮山の軍の最前線に吉川広家の三千の兵が陣取って、ずっと道を開けなかったからなんです。
 再三、後ろの軍から早く出陣するように言われても、吉川広家は、「今は霧が濃くて、出陣できない」 と言って、ちっとも動こうとしない(笑)

 あの大軍がまともに徳川家康本陣に突っ込んでいたら、さすがの家康も負けていました。
 関ヶ原の合戦において、東軍を勝たせた一番の功労者というのは、僕は吉川広家だと思うんですよ。

 まあその結果、毛利輝元が総大将を務める西軍は、あっさりと負けてしまいました。
 しかも皮肉にも、本来なら毛利を支えるはずの吉川軍と小早川軍によって…

 さて、大坂城にこもっていた毛利輝元の元に
 「毛利家は不戦を貫いたし、本人も知らない内に西軍の総大将に担ぎ込まれたのですから、所領は安堵しますよ」
という徳川方からの手紙が届きました。

 養子の毛利秀元は、大坂城退去に反対しました。
 吉川広家のせいで、毛利軍は参戦する事ができなかったものの、一兵たりとも減っていない訳ですからまだまだ戦えます。
 このまま大坂城に籠っていれば、豊臣秀頼を擁しているのだから勝ち目はあるんです。大坂城は天下の堅城ですし…

 豊臣恩顧の武将も、さすがに秀吉の子の秀頼には弓をひけませんから、秀頼さえ正面に出しておけば徳川家康も滅多な事に手出しはできません。
 それに、輝元は仮にも西軍の総大将になってしまったのだから、主張をコロコロと変えるのは武家の面目にも反します。

 ところが毛利輝元は、今度は吉川広家の意見を採用して、さっさと大坂城を退去してしまいました。

 結局この人、いつもどっちつかずで定まらないんです(笑)

 西軍の総大将になったのだって、周りに流されてそうなっただけで、元々自分の意思ではありません。
 この時に、もしも本気で総大将として西軍の勝利を考えていたら、いつまでも大坂城にこもっていないで、周りを説得して豊臣秀頼を連れて関ヶ原に参戦しているはずです。
 この時点では秀頼は家康の主君筋ですから、もしそんな事になれば家康は手も足も出ません。
 秀頼に弓を向けてしまったら、豊臣恩顧の武将がみんな敵になってしまいますから…

 毛利輝元は人が良い上に、「自分はこうしたい」 というハッキリとした意思表示がないから、常に周りの人のいう事に流されてしまう…
 おまけに、自分がした決断に対しての責任感も無い…

 毛利輝元は徳川方の手紙をもらって、すっかり所領は安堵されるものだと信じていました。

 ところが徳川家康は、大坂城の中で、輝元の花押が押された西軍の連判状や、輝元の名で書かれた家康への弾劾文がたくさん見つかった事で、「やっぱり毛利家は改易する」 と言ってきました。
 「毛利輝元は、本人も知らない内に西軍の総大将に担ぎ込まれた」 という、この前の話と違うじゃないか、という訳です。

 だいたい、所領安堵の約束も家康自身はしていません。全ては、吉川広家と徳川方の黒田長政なんかの約束です。

 その上で家康は、
 「毛利家は改易し領地は全て没収するが、広家殿の忠節はこの家康しかと受け取った。ゆえに、律儀な広家殿には周防と長門を与えて、中国地方の抑えを任せたいと思う」
と言いました。

 この辺が家康のうまい所です。
 ところがこれでは吉川広家はたまりません。元々、毛利家を存続させる事だけを思って、行動したのですから…

 仕方なく、「自分が頂ける周防と長門を、どうか毛利輝元にお与え下さい」 と家康に嘆願する事に…

 これが、毛利家120万石から36万石への大減封の顛末です。

 晩年、毛利輝元は、「近頃の世の中というのは万事が逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様な事になっている」 と、自嘲気味に嘆いたと言います。

 この毛利輝元という人は、多分人を頼り過ぎたんじゃないかな… って気がします。
 いつも周りの人の言う事や、事の成り行きを任せて、自分の力で何かをつかみ取っていこうとしなかった…

 西軍の総大将になる決断をした時に、詮議をしようとしなかったのも、おそらくは安国寺恵瓊にそそのかされたんだと思うんです。
 あの時に詮議なんかやったら、吉川広家と毛利秀元が猛反対するのは目に見えていましたから…
 輝元は輝元で、安国寺恵瓊がそう言うのならそれに従っておくか、とでも思ったのでしょう。

 取りあえずは西軍について、周りの言う事を聞いていれば、面倒くさい事は宇喜多秀家とか石田三成とかが全部やってくれると思ったのかも知れません。

 ところが大坂城籠城となると、今度は自分が正面に立って家康と対決しなくちゃならないから、きっとその重荷に耐えられなかったのだと思う…

 時に人は、自分の力で強く生きていかなければならない事があります。
 人は人…、それぞれの思惑で動くから、決して当てにはなりません。

 自分で考えて自分の力でやってみて、失敗したっていいんです。チャンスを生かせないで、何もしないままでいるのが一番もったいないです。
 それに今は戦国時代と違って、命を取られる事もありませんし…

 自分が最大限できる事は何かを真剣に考えて計画を立て、自分の力で動き出した時、その先に素晴らしい未来があるはずです。


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