2012.03.20
かき消されたエテイヤの足跡
ルーブル美術館にあった、膨大な数の古代エジプトの遺跡と美術品……
それは、尋常な数ではありませんでした。
あれだけの大きさな石やら何やらをたくさん積みこんで、よく当時の(ナポレオン遠征時代の)船が沈まなかったものだと思うくらいの量でした。
古代エジプト美術部門を創設したのは、エジプトのヒエログラフの解読に初めて成功した、あのジャン・フランソワ・シャンポリオン。
どうりで、これだけ大掛かりな展示コーナーになるはずです。
ルーブル宮殿が、国民議会の宣言により、「学問と芸術のあらゆる記念碑的な作品を集めた場所」つまり、ルーブル美術館の前身となったのは、おりしもエテイヤが死亡した1791年の事でした。
エテイヤはいつも大言壮語する癖があって、それが元でタロットの研究家に揚げ足を取られイメージを悪くしていますが、例えば当時、フランス革命が勃発する事を、的確に予知していたりします。
ただ、これはエテイヤの超能力と考えるよりも、時代の流れから先を読み取る直観力に優れていたと考えるべきでしょう。
そんなエテイヤだから、ルーブルのエジプト展示品の中に、エテイヤがあらかじめ予知していた何かが見つかるかもしれない、少しだけそんな期待がありました。
結果は見事にもくろみ違いでしたが、逆に「エテイヤ・タロットと、古代エジプトは無関係」というのがハッキリとわかって、今はすっきりした気分です。
フランス革命により始まった、例え罪がなくても疑いを掛けられればギロチンに送られてしまう、恐怖政治の時代……
あまり知られていませんが、エテイヤは、この死刑制に反対する呼びかけを、自らのパンフレットで訴えたりもしているのです。
エテイヤは、どちらかというと不真面目そうなイメージに取られがちですが、真剣に社会の事を考えていた人でもあります。
エテイヤが生まれたのは、1738年3月1日のフランス・パリ……
そして記録により、1791年12月12日に亡くなった事はわかっていますが、彼の死亡の原因も、彼の墓が一体どこにあるのかもわかりません。
僕もこちらでいろいろ調べてみましたが、駄目でした。
とても手に負えなさそうなので、ステファンさんに依頼してみましたが、それでもやはり駄目でした。
ステファンさんは、
「フランスの占いがここまで発展できたのは、エテラ(エテイヤの事)とルノルマン(マドモアゼル・ル・ノルマンの事…… 19世紀に活躍したフランスで最も有名な女占い師)のお陰なのに、全く何も資料が残っていない」
と、少し憤りさえ感じているようでした。
ステファンさんはいつも、これでもかというくらい真剣に依頼にあたって下さいます。
タロットの事は専門外のはずなのに、今ではすっかりタロットに精通されています。
エテイヤ・タロットの本だって、ステファンさんがいなかったら、おそらく見つける事は出来なかったでしょう。
今回の取材の目的の一つに、エテイヤの「エジプシャン・タロット」を扱っている占い師に、実際の占いを受けてみる、というものがありました。
ステファンさんは、これに関しても、精一杯の事をして下さいました。
インターネットですみずみのサイトまであたって、電話で問い合わせたり、掲示板で呼びかけまでなさって下さいました。
しかしそれでも、残念ながら一人も見つかりませんでした。
つまり、パリの中に実際にエテイヤ・タロットの使い手がいないのです。
あるホームページに「エテイヤ・タロット」と書いてあるので、ステファンさんがその占い師に電話してみると、「ホームページに書いてはあるけど、実際には私は出来ない」という返事がかえってきたそうです。
19世紀のパリで圧倒的人気だった、エテイヤの「エジプシャン・タロット」、しかしその時すでに、フランスに運ばれた膨大なエジプト遺跡によって、息の根は止められてしまっていたのかも知れません。
タロットの本の原稿の見直しの作業も、だいたいの目途がたちました。
僕が今とりあえずパリで出来る事は、だいたい終わったかな……
あとは日本でエテイヤの本の翻訳にかかるつもりです。ここに何か新しい発見が隠されているかも知れません。
パリ在住のOさんから、フランス語の翻訳でわからない所があったら、いつでも聞いてください、という連絡が入りました。
僕は本当に周りの人に恵まれています。
だから、これに関しては、きちんとやり遂げないといけない、改めて心にそう誓いました。
この前、エテイヤのタロットを購入した「GIBERT JEUNE」の書店の近くに、サント・シャペル礼拝堂があります。
その中に、少し足を踏み入れてみました。

ステンド・グラスから差し込む光のシャワー……
仕事に疲れた心を、解放してくれます。
明日はパリ最後の日、しばし仕事を忘れて、パリを満喫してみようかと思っています。
それは、尋常な数ではありませんでした。
あれだけの大きさな石やら何やらをたくさん積みこんで、よく当時の(ナポレオン遠征時代の)船が沈まなかったものだと思うくらいの量でした。
古代エジプト美術部門を創設したのは、エジプトのヒエログラフの解読に初めて成功した、あのジャン・フランソワ・シャンポリオン。
どうりで、これだけ大掛かりな展示コーナーになるはずです。
ルーブル宮殿が、国民議会の宣言により、「学問と芸術のあらゆる記念碑的な作品を集めた場所」つまり、ルーブル美術館の前身となったのは、おりしもエテイヤが死亡した1791年の事でした。
エテイヤはいつも大言壮語する癖があって、それが元でタロットの研究家に揚げ足を取られイメージを悪くしていますが、例えば当時、フランス革命が勃発する事を、的確に予知していたりします。
ただ、これはエテイヤの超能力と考えるよりも、時代の流れから先を読み取る直観力に優れていたと考えるべきでしょう。
そんなエテイヤだから、ルーブルのエジプト展示品の中に、エテイヤがあらかじめ予知していた何かが見つかるかもしれない、少しだけそんな期待がありました。
結果は見事にもくろみ違いでしたが、逆に「エテイヤ・タロットと、古代エジプトは無関係」というのがハッキリとわかって、今はすっきりした気分です。
フランス革命により始まった、例え罪がなくても疑いを掛けられればギロチンに送られてしまう、恐怖政治の時代……
あまり知られていませんが、エテイヤは、この死刑制に反対する呼びかけを、自らのパンフレットで訴えたりもしているのです。
エテイヤは、どちらかというと不真面目そうなイメージに取られがちですが、真剣に社会の事を考えていた人でもあります。
エテイヤが生まれたのは、1738年3月1日のフランス・パリ……
そして記録により、1791年12月12日に亡くなった事はわかっていますが、彼の死亡の原因も、彼の墓が一体どこにあるのかもわかりません。
僕もこちらでいろいろ調べてみましたが、駄目でした。
とても手に負えなさそうなので、ステファンさんに依頼してみましたが、それでもやはり駄目でした。
ステファンさんは、
「フランスの占いがここまで発展できたのは、エテラ(エテイヤの事)とルノルマン(マドモアゼル・ル・ノルマンの事…… 19世紀に活躍したフランスで最も有名な女占い師)のお陰なのに、全く何も資料が残っていない」
と、少し憤りさえ感じているようでした。
ステファンさんはいつも、これでもかというくらい真剣に依頼にあたって下さいます。
タロットの事は専門外のはずなのに、今ではすっかりタロットに精通されています。
エテイヤ・タロットの本だって、ステファンさんがいなかったら、おそらく見つける事は出来なかったでしょう。
今回の取材の目的の一つに、エテイヤの「エジプシャン・タロット」を扱っている占い師に、実際の占いを受けてみる、というものがありました。
ステファンさんは、これに関しても、精一杯の事をして下さいました。
インターネットですみずみのサイトまであたって、電話で問い合わせたり、掲示板で呼びかけまでなさって下さいました。
しかしそれでも、残念ながら一人も見つかりませんでした。
つまり、パリの中に実際にエテイヤ・タロットの使い手がいないのです。
あるホームページに「エテイヤ・タロット」と書いてあるので、ステファンさんがその占い師に電話してみると、「ホームページに書いてはあるけど、実際には私は出来ない」という返事がかえってきたそうです。
19世紀のパリで圧倒的人気だった、エテイヤの「エジプシャン・タロット」、しかしその時すでに、フランスに運ばれた膨大なエジプト遺跡によって、息の根は止められてしまっていたのかも知れません。
タロットの本の原稿の見直しの作業も、だいたいの目途がたちました。
僕が今とりあえずパリで出来る事は、だいたい終わったかな……
あとは日本でエテイヤの本の翻訳にかかるつもりです。ここに何か新しい発見が隠されているかも知れません。
パリ在住のOさんから、フランス語の翻訳でわからない所があったら、いつでも聞いてください、という連絡が入りました。
僕は本当に周りの人に恵まれています。
だから、これに関しては、きちんとやり遂げないといけない、改めて心にそう誓いました。
この前、エテイヤのタロットを購入した「GIBERT JEUNE」の書店の近くに、サント・シャペル礼拝堂があります。
その中に、少し足を踏み入れてみました。

ステンド・グラスから差し込む光のシャワー……
仕事に疲れた心を、解放してくれます。
明日はパリ最後の日、しばし仕事を忘れて、パリを満喫してみようかと思っています。