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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

強力なライバルは自分を強くする

 どんな商売をやっていても、いつしか競合相手というのが出てきます。
 自分と同じ職種の相手が、同じ土俵に入ってこられたら、誰でもあまりいい気持ちにはなれないでしょう。
 サラリーマンをやっている人なら、同じ会社の部署に入ってきた後輩が、先に役職につこうものなら、どんなに出世には調味がないと言ってみても、心おだやかではいられないでしょう。

 今から500年前の戦国時代も、そうでした。
 現代の競争社会では、例え競争に負けても命を取られるような事はありませんが、戦国時代というのは、負ければ相手に首を獲られる時代ですから、それは熾烈です。

 また、徳川家康の話になってしまいますが、若い時の家康というのは、本当に苦労の連続でした。
 織田信長と同盟してからも、家康の周りというのは、強力な敵だらけでした。
 その中で、家康が最も恐れた武将が、甲斐の武田信玄でした。

 武田信玄は120年ぐらい続いた戦国時代の中でも、最もみんなから恐れられた名将の一人と言っても良いでしょう。
 政治的駆引きや謀略、戦の采配、領国統治… どれを取っても群を抜いていました。
 家康は、領地が隣接している関係で、常にその信玄を敵に回さなければなりませんでした。

 ある時は、信玄と正面切って戦った事もありましたが(三方ヶ原の戦い)、散々な大敗北を喫し、味方は千人以上の犠牲者を出し、家康は居城の浜松城へ逃げ帰る時、恐怖のあまり馬上で糞をもらしたと言います。

 ところが、その武田信玄がその後間もなく、急に病を発して、陣中で亡くなってしまったのです。
 徳川方の武将は、みんな大喜びです。かねてからの強敵が戦わずして消えてしまった訳ですから…

 でも、意外にも家康は、喜んだ顔をしませんでした。
 そして、部下にこう言ったといいます。

 「信玄という大宿敵のお陰で、我らは緊張し軍備を備え、よい政治を行なわんと努めてきたのだ。今後のこのゆるみこそ、もっとも気をつけなければならない。
 よいか、平氏を滅ぼすのは平氏なり。鎌倉を滅ぼすのは鎌倉なり。恐ろしいのは敵に滅ぼされるのではなく、滅びる原因は内にあるという事だ。
 油断、贅沢、不和、裏切り… 全て味方の中から起こる。これからはこれらに注意しなければならない。
 むしろ、信玄の心配よりも大きいだろう。強敵の死は少しも喜ぶべき事ではないぞ」

 いかにも家康らしい言葉です。
 家康は、若い頃からひそかに信玄を私淑し、軍法も領国運営も信玄を手本としていました。
 この後の家康が、戦さで負け知らずなのも、信玄という偉大な敵のお陰といえます。
 晩年の家康は、
 「我が天下を治められたのは、武田信玄と石田治部少輔(石田三成の事)の二人のお陰のようなものだ」
 と述懐しています。

 もう一人、信玄という戦国屈指の旗頭が亡くなったのを、敵ながら惜しんだ男がいました。
 越後の国の上杉謙信でした。
 謙信は軍神と恐れられるほどの戦さの天才で、川中島の合戦で、幾度も信玄とぶつかり合っていました。
 この二人がぶつかり合う事がなければ、天下の動向もまた違ったものになったかも知れないといわれています。

 それでも二人とも、お互いに相手を認め合い、学ぶべき所は学び合っています。
 「謙信は義人であって、天下に未だ比較できるような人物はいない」
 と武田信玄は上杉謙信の事を高く評価し、死の間際には息子の勝頼に、
 「謙信は、頼まれれば決して断る事をしない。必ず力になってくれる」
 と、上杉謙信を頼るように遺言しました。

 一方の上杉謙信も、武田信玄の訃報を知るや
 「わしには長年の宿敵ではあったが、関東の名大将を亡くしてしまった。誠に惜しい事である」
 と言って落涙し、喪に服すため、三日の間城下の武家に音楽を禁止したといいます。

 最強の敵である人間が、お互いに自分の最もよき理解者だったのかも知れません。

 現代であっても、強力なライバルの出現というのは、自分を高めてくれるチャンスだと思ったらいいです。
 自分一人が独走して、天狗になってしまう方がよっぽど怖いです。
 だから、ついてないなんて思わずに、精一杯勝負したらいいです。

 そのうちいつの日か、お互いが認めあえるような時が、来るかもしれません。


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