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浅野太志 songe a Paris

パリでエテイヤ・タロットの取材を終えた、占い師・浅野太志の日々の活動をつづります。

堪忍を全うした偉人

 三英傑の話も、いよいよ今日が最後です。
    無理やりつき合わせて、ごめんなさい…

 この三人の天下の持ち回りの事を、餅にかけあわせて、
「天才である織田(信長の事)がついて、才人である羽柴(秀吉の事)がこねて、作り上げた天下餅を、何もせず座って食べたのは、凡人の徳川(家康の事)だった」

 と言われたりする事があります。
 なんか、家康だけ損な役回りをさせられていますが、まあ、一番おいしい所をいただけたのは確かですし、皮肉られても、仕方ないと言えば仕方ないでしょう。
 それにしても、「凡人」 って…(笑)

 頭の良さという事でいえば、家康は信長を上回るくらいの冷静な知恵が回った人です。
 ややタイプは違いますが…
 信長や秀吉というのは、たたき上げの創業者タイプですが、家康は明らかに官僚タイプです。
 物事にソツがありません。いわゆる学校の優等生型です。
 だからつまらないし、家康嫌いの人もいっぱいいます。

 物事の本質をつくような事を言って、周囲を感心させる事も多かったにもかかわらず、独特の要領の悪さやバカ正直な真面目さが、凡庸っぽいイメージを与えているのだと思います。
 (それによって結果的に得をしてしまうので、腹黒いイメージを持たれる事さえあります)

 家康の行動パターンの最もたる特徴は、「損をする生き方」 を見事に実践していた所にあります。
 その傾向は、幼少の頃からありました。

 13歳の頃、駿河の国で今川義元の人質になっていた時の話です。
 墓参という名目で、義元から一時的に本国である三河の岡崎城へ帰参を許された事がありました。
 岡崎城は先祖代々からの松平家(のちの徳川家)の持ち城、いわば自分の城です。
 ところが家康は、岡崎城に入っても、本丸へは決して上がろうとせず、ずっと二の丸で過ごしたのです。

 「竹千代(家康)は未熟者ゆえ、二の丸にとどまりたいと思います」
 この家康の発言を聞いた今川義元は、
 「竹千代は未熟者なものか、何とまあ思慮深い人物だ。大人になったら、どんな素晴らしい人物になるか計り知れない」
 と、周囲の者につぶやいたそうです。

 一般的に、家康は今川義元から人質としてぞんざいに扱われていたみたいに思われていますが、それは必ずしも正しいとは言えません。(義元の家臣(例えば孕石元泰)から、ぞんざいに扱われた事は事実ですが…)

 あまり知られていませんが、今川義元が桶狭間の合戦により、織田信長に命を奪われると、家康は今川義元の弔い合戦と称して、織田の城を必死になって攻め立てていました。
 「今川殿の恩義に報いるために戦わねばならぬ」
 と言いながら、懸命に戦っていたのです。
 今川義元の息子である氏真(うじざね)をはじめ、誰一人弔い合戦などする気もなかったのに…
 結果的に家康が三河で独立したのは、今川氏真があまりにも無能だったからです。

 後年、豊臣秀吉の天下となって、江戸に領国が移ってからも、東海道を通って桶狭間に立ち寄った際には、家康は必ず義元の墓前に立ち寄って手を合わせたと言います。
 そして家臣にも、同じ事をするように指示していました。

 歴史に If というものはないのですが、仮に桶狭間の奇襲が成功せず、今川義元が京に上洛して、早々と天下を取っていたら、やっぱり家康はそのNo2ぐらいにはなっていたでしょう。

 仮に信長という存在がなくても、家康という人物は天下に君臨する定めだったに違いありません。
 元々生まれながらにして、そういう素養を持っていますから…
 これは、豊臣秀吉に関しても同じ事が言えると思います。

 家康は子供の頃から、「史記」 とか 「易経」 とか小難しい本をいっぱい読んでいました。
 この家康の 「損をする生き方」 は、多分 「易経」 を読んでいた影響によるものではないかと思うのですが、この後も、天下を目の前にするまでずっと、このスタイルは続きます。

 姉川の戦いで、織田信長と連合を組んで、浅井軍・朝倉軍を相手に戦う時も、信長が珍しく気を遣って、
 「三河殿(家康の事)は、二番備え(にばんぞなえ/戦況が不利になった時に出向く予備軍)をされよ」
 というにもかかわらず、
 「それがしはそんな事をする為に、ここへ来たのではありません。敵と正面から戦う為に来たのです」
 と言って、自軍の二倍もの兵力の朝倉軍と戦って、見事勝利しています。
 たまたま勝ったからいいようなものの、普通の人から見たら、かなり馬鹿っぽいです。
 信長の指示に従って、二番備えをしていれば、うんと楽ができたのですから…

 豊臣秀吉が台頭して、諸大名の前で臣従の礼をする際には、これでもかとばかり秀吉の前で低頭しました。
 さらに、秀吉の陣羽織を所望したいと願い出て、
 「今後は、殿下に陣羽織を着せて、合戦の指示を取らせるような事はいたしません」
 と誓っています。
 家康にとっては、かつて秀吉は朋友・信長の部下だったわけで、普通ならプライドが邪魔してなかなかここまではできないと思うのですが、家康にはこういう事ができてしまう。
 どんな時でも、常に自分を空(くう)にできる強みを家康は持っているのです。
 家康が本当に 「凡人」 だったら、絶対にできない事です。

 最晩年家康は、後継者である息子の秀忠に、天下をおさめるにあたっての 「訓戒の書」 というのをしたためました。
 これは 「堪忍」 という事について、書かれたものですが、その中で織田信長と豊臣秀吉の事を記している箇所があります。

 「織田殿(信長の事)は近世の名将にて、人をよく使い分け、大きな器にて智勇が優れた人であったけれども、堪忍というものが(十ある内の)七つ八つにて破れてしまったゆえに、光秀の件が起こった。
 太閤様(秀吉の事)は、生まれながらの大きな器と智勇があって、堪忍というものがしっかりできていたゆえに、卑賤の身より二十年の内に天下の主にもなられたが、余りにも自信家ゆえ、分限の堪忍というものが破れてしまった。
 そうなる前はうまくいっていたにもかかわらず、身の程をわきまえなくなってからの万事華麗なまでの過分の知行や、行いや施しは、もはや奢り(おごり)というものである…」
 (清水橘村 「家康教訓録」 より)

 信長は、十ある内の堪忍の七つ八つが破れていた。
 秀吉は、ほぼ完璧だったが、最後になって 「奢り」 というものによって、堪忍の一つが破れてしまった。

 「堪忍」 などというと古めかしく聞こえますが、「自分を律する」 とか、「自分に打ち勝つ」 とか言った言葉に置き換えるとわかりやすいかも知れません。
 戦国の最後の勝者・徳川家康の言葉は、実際に苦労してきた人だけに、やはり重みがあります。

 人生において、未来というものは、大方決まっています。
 その人の持つ性格や考え方の中にある素養の部分によって…
 信長も秀吉も家康も、やっぱりそれぞれがああいう人生を歩むのは、大方決まっていたと思うんです。
 逆にいえば、性格や考え方といった心の中の素養を磨きさえすれば、どれだけでも人生をレベルアップさせる事ができます。

 こうなったら我々も三英傑に負けることなく、己の人生を最大限にレベルアップしようではありませんか。



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